終電前の日高屋

浮ついたハスキーが雑衆の合間を劈いた。
中村は「お前は?」と訊かれてようやく返した。
幾度も潜り抜けてきた終電前の戦場で橋本は両手に抱えたトレイを颯爽と片した。足早に客席へ向かう。
「ご注文は」
ジョッキを片手に矢沢が怒涛の連弾を繰り出した。
手慣れたハンディ捌きの前ではかつてのシベリアンもただの室内犬だ。
去り際に矢沢が生もう一個、と遠吠えを上げると
「あいよ」
と、再び躾けた。

 

『終電前の日高屋

 

「てかさー聞いてよーこの前さー美緒がさー…」
岡園が歯茎に餃子の皮をつけながら愚痴を垂れる準備をした。
矢沢はセブンスターを指で弾き、中村は灰皿を一瞥した。
丸川がうんうんと頷くと岡園はそちらを向きながら話を続けた。
「もう予約してたのにネイルとダブルブッキングとか言ってドタキャンしてきたのマジありえなくない?」
丸川は眉を顰めて共感の意を示した。
チュニックからキャミソールストラップがはみ出ている。
矢沢は岡園の愚痴をからかうように肩肘をついて冷笑している。
首元の刺青に皺が寄った。
「そもそもこないだの日曜もー」
「こちら生ビール5つと、焼き餃子、枝豆…」
「ビール一つ多くない?」
丸川がジョッキを見つめながら言う。
話を遮られたことに不満を抱いたのか岡園が口を尖らせた。
「…です」
と橋本が立ち去る。
矢沢が口を開く。
「あぁ、たくやが来るらしい」
岡園と丸川が目を見開いて口を噤んだ。
「たくやは酒やめたらしいよ」
と中村が呟いた。

数秒間の沈黙を矢沢が破った。
「中村、お前たくやと最近会ったのか?」
中村は逡巡を経て矢沢の額を見つめた。
「矢沢くん、汗出てるっすよ」
矢沢は目線を上に向けた後、パーカーの袖で額をなぞった。
「会ってないっす。連絡をちょいちょいしてるくらいで…」
すかさず岡園が口を挟んだ。
「どんな連絡してんの?」
怒りにも似た口調だった。
丸川の表情筋は強張ったままだ。
「他愛のない話だよ」
店内の賑わいがやけに鮮明だった。
雑兵達が蠢く中、セブンスターを灰皿に擦り付けながら
「トイレ行ってくらあ」
と矢沢が席を立った。

丸川はジョッキの水滴を見つめている。
岡園は酒を飲むペースが早くなっていた。
「すいませーん、生一つ!」
覚束ないジェスチャーに橋本が相槌を打った。
「ミカ…飲みすぎじゃない?」
丸川がようやく口を開く。
「シケたこと言ってないでアンタも飲みなよ!」
岡園は丸川の頭部から頬にかけてをポンポンと叩いた。
それを右腕で押し返していると、矢沢が戻った。
「もう来るらしいってよ」

「今更何話すって言うの」
岡園がぶっきらぼうに言った。
頬が赤らんでいて目の焦点が定まっていない。
「知らねえよ」
矢沢が気怠そうに返した。
ちょうどそんなやりとりをしているうちに入店音がした。
スラッとした長身にラッキーストライクを咥えている。
店員の声を無視して黒いジャケットを雑に羽織っている行儀の悪い男。
「久しぶり、たくや」
中村が言った。
たくやは頷くと、周りを見渡した。
「よう、みんな」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ライブ会場は雨だった。
「こんくらいで消えちまうくらいの客はよー」
事前情報の三分の一にも満たない客席を見渡しながら矢沢は呟いた。
「それをマイク通して言えばいいんじゃねえのか?」
たくやが忌憚なく矢沢に突き刺す。
「るせぇなぁ…」
何かを察したのかフットドラムの音が聴こえ始めて、慌ててベースが鳴り始めた。
リズム隊に被さるようにギターが合わせる。
ダブルボーカルの矢沢とたくやがマイクを構えた。
曲とともに会場から熱気が溢れる。
バイオリンは自らのパートを待っていた。
空席の目立つことも気にならないくらいだった。

「気に喰わないんだよ」
ライブ終わりに矢沢はそう言い放った。
それの何が気に喰わなかったのかはたくやしか知らない。
しかしその日から矢沢は活動に参加しなくなった。
"フェイクロック"は事実上の解散となり、たくやも姿を見せなくなった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
誰も核心に触れないまま、しかし何となくきっと誰もが矢沢の心中を想像はしていて、敢えて聞き出さなかったのだろう。
矢沢がセブンスターを弾いた。
静まり返るテーブルでたくやの言葉を待っていた。
「シケた面しやがって」
辺りを見渡し、たくやが言った。
「あんた、何しにきたのよ」
岡園が敵意を見せるように言った。
丸川は二人の様子を怯えながら窺っている。
「中村に呼ばれたんだよ」
中村は表情を崩さず静かに頷いた。

「このクソくだらない空間を壊しにきたんだ」
中村がそう呟くと、セブンスターを持った右手が飛んできた。
中村は拳をそのまま顔で受け止め、頬を抑えた。
「そっちの方がまだマシだ」
中村がそう言うと、たくやは笑った。
岡園は目を見開き、丸川は依然怯えている。
騒ぎを聞きつけた橋本が客席に向かう。
「ラストオーダーの時間ですが」
終演の報せを受けた一同は押し黙っている。
「橋本、弓忘れんなよ」
たくやがそう言うと、橋本は
「かしこました」
と閉店作業を行った。

 

fin.

 

 

夏の夕立

三船海岸沿いは今日も夕暮れだった。
ひしゃげた鴎が宙を舞う。
黒ずくめの海洋が高らかに鳴いている。
その遠吠えを聞きつけたシド・ヴィシャスが浜辺に流れ着く。
ニーチェが孤城に顔を埋める。
小便を搔っ食らう神が髭を整える。
鸚鵡返しのSiriが問いかける。
濃紺に沈む海原は霧笛を待っている。

 


『夏の夕立』

 


笠松の停留所は雨だった。
来れども来れども運転手は怪訝な眼差しを向ける。
煩わしさを抱えたアナウンスが反響する。
飛沫を上げて立ち去るディーゼルの攻撃性と咳き込む煙。
一つ一つの粗相を見つめる静寂の音がした。
お前か
それともお前か
説教を垂れる雷が頬をつねる。
サーカス集団がパラダイムシフトの儀式を済ませて立ち上がる。
ルーブルを召し上がれ!」


「…岡野宮〜岡野宮〜」
侵入する。
一粒一粒の更に小さい世界へ。
流を感じる。
流は流を呼んで、流に流と呼ばせた。
爛々と、爛々としている。
流は爛々としている。
流は爛々と…
「次止まります」
規則的な白黒写真に遡行する。
「ごめんなさいね」
前方でババァが喋る。
今日は降り止まない雨だが、明日は降り止む雨だと思った。


三日月だった。
三日月はソファーみたいに座れる。
満月はソファーみたいに座れない。
そう思った時もう一度海を見たくなった。
停車ボタンを連打する。
世界はそれに呼応しないが、停留所は山の中だった。
柘榴の異臭が鼻を突く。
アウトロに差し掛かる右ハンドルが燥いでいる。
ドレミを拾いに行く望郷の雨。
車輪がグルグルしている。
車輪はグルグルしていた。
右も左も同じで、前も後ろもやがて同じになった。
四肢の感覚を捥いで此処は海だった。
「大丈夫ですか!?」
カーカーカーで事足りる。
蝉はうるさい。

 


fin.